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もう二度と出逢えないパリのワイン蔵【ワイン航海日誌】

もう二度と出逢えないパリのワイン蔵【ワイン航海日誌】

2023年11月7日

1969年代の夏の某日、私は夏季休暇を利用して滞在中のウィーン(オーストリア)から花の都を訪ねました。巴里(パリ)はこの時が初めてでしたが、現地の知人が到着早々に案内してくれた場所は、三つ星レストランでなければモンマルトルの古い葡萄畑でもありませんでした。セーヌ川沿いを愛車ルノーで飛ばし、かのレストラン銀の塔(トゥールダルジャン)をもやり過ごしてしばらく進むと、目の前に現れたのは奇妙な洞穴!その昔に巴里の住人たちのために掘られたワイン蔵の跡地(表紙の写真)。なんだこれは、縄文時代の墓跡か?と勘違いした自分が恥ずかしいです。

ワイン2310_サブ1(こちらは正真正銘の洞穴、静岡県函南の近くの粕谷横穴群)

上の写真は、静岡県の函南(かんなみ)の近くにある国指定跡史で、山の斜面に残る古代のお墓。古くから「粕谷の百穴」とも呼ばれています。この風景、あの日に巴里で見たワイン蔵にそっくりなんですよね。もしかしたら、この洞窟のいくつかはお墓で、かつては彼らの住まいでもあり、お酒や食べ物を保存しておくCaveなのでは?なんて考えると、興味深々ですよね。

古墳時代から奈良時代まで使われていたというこの穴蔵に出かけるには、新幹線を利用すると熱海で東海道本線へ乗り換えて、次の函南駅で降りてタクシーを利用します。ちなみに、函南という地名は、函嶺(箱根)の南、箱根連山の南側に位置することから名付けられたようです。

私は、疲れ切った心と身体を癒すために、この百穴の近くにある畑毛温泉の小さな温泉宿をよく利用します。お目当てはもちろん温泉なのですが、本当の旅の目的は温泉で癒やされた後にワインを愛でるひととき。グラスはロブマイヤーの特製品ですが、一緒に持参するワインは名も無き無名のボトル。よい湯で癒された状態なら名も知れぬ銘柄も構わないので、モーゼルのリースリングなど安価なワインを選ぶことが多いです。

というわけで、ここ畑毛温泉の効用は素晴らしいです。歴史を紐解くと、伝承によれば源頼朝が当温泉で軍馬の療養をされたそうで。江戸時代には湯塚の湯と呼ばれて腫れ物に対する温泉の効能が広く流布され、江戸中期の寛延年間にはすでに湯治が行われていたという伝記もあります。かの与謝野晶子も畑毛の湯に浸り「湯口より遠く引かれて温泉は女の熱を失ひしかな」の名句を残していますね。

ちなみに、畑毛温泉は昭和37年(1962年)に国民保養温泉(環境省)の指定を受けています。温泉の泉質はラドン含有弱アルカリ性単純泉で、効能はリウマチ、糖尿病、神経痛、高血圧症、消化器機能障害、運動機器障害など。その湯は人によっては温く感じる方もおられるようですが、現在は周辺の宿なら必ず源泉32度、加熱38度、42度弱の湯船が用意されていますので、どうぞご安心を。

さて、晶与謝野晶子と言えば、この畑毛温泉でもう一句歌っています。「真白なる富士を削りて我に媚ぶ春の畑毛の温泉の靄」。そしてもうひとり、畑毛の湯を愛した歌人も。その名は、若山牧水。

ワイン2310_サブ2

沼津をこよなく愛した牧水は、晩年にこの地を終の住み処に選びました。彼の作品の中には市内の小さな山・香貫山(かぬきやま)を舞台に創られたものも多く、また家族を連れて楽しんだという記録もたくさん残っています。家族を愛し、旅と國酒を愛し、ワインもこよなく愛した歌人。こちらも、畑毛の湯を讃える歌ですね。

「長湯して飽かぬこの湯のぬるき湯にひたりて安きこころなりけり」

私も、この畑毛の湯の虜になって、かれこれ40年が過ぎました。しばらく熱海で日々を過ごしたことがあるのですが、その当時も車を出しては気づいたら畑毛の湯に浸っていた…なんてことがよくありました。私は今年で85歳になりますが、この歳まで長生きさせていただけている秘訣は、もしかしたらこの名湯の力も含まれているのかもしれません。

牧水は、葡萄郷山梨の地も旅しています。「草ふかき富士の裾野をゆく汽車のその食堂の朝の葡萄酒」。これもよい歌ですね。朝から葡萄酒?悪くないでしょう!牧水を真似て、ワインを抱えて甲府駅へ向かい身延(みのぶ)線に乗り込みたくなりますが、もし実行するならやはり山梨産のワインがよいでしょうか、それとも北海道(=北加伊道)の名付け親・松浦武四郎が愛した北の大地のワインがよいのでしょうか。

ワイン2310_サブ5

選ぶのを牧水さんに任せたら、どうなるでしょう?もしかしたら、ラインガウあたりの安くて美味しいワインを選んだりして?そんなことを思い巡らせていると、どこかで聞いたような記憶が蘇ってきたり。

「もしもラインの流れがワインだったなら私は金魚になりたいは」。読み人知らず。

これからの季節、ワインが最高に美味しくなるはず。酒好きの牧水になり切れば、一首生まれるかもしれませんよ。

幾山河 こえさりゆかば 寂しさの
はてなむ國ぞ けふも旅ゆく。
若山牧水


著者:熱田貴(あつたたかし)
経歴:昭和13年7月7日、千葉県佐原市に生まれる。外国にあこがれ(株)日之出汽船に勤務し、昭和38年まで客室乗務員として南米、北米を回りワインに出会う。39年にホテルニューオータニ料飲部に。44年~47年までフランス・ボルドー、ドイツ・ベルンカステル、オーストリア・ウィーン、イギリス・エジンバラにてワイナリー、スコッチウィスキー研修。48年ホテルニューオータニ料飲部に復職。平成3年に東京麹町にワインレストラン「東京グリンツィング」を開業。平成9年に日本ソムリエ協会会長に就任。「シュバリエ・ド・タストヴァン」「コマンドリー・デュ・ボンタン・ドゥ・メドック・エ・デ・グラーヴ」「ドイツワイン・ソムリエ名誉賞」など海外の名誉ある賞を数々受賞。その後も数々の賞を受賞し、平成18年に厚生労働省より「現代の名工」を受賞、平成22年度秋の褒賞で「黄綬褒章」を受賞。現在は一般社団法人日本ソムリエ協会名誉顧問、NIKI Hillsヴィレッジ監査役などを務めている。

★ワイン航海日誌バックナンバー
【1】もう1人いた「ワインの父」
【2】マイグラスを持って原産地に出かけよう
【3】初めてワインに遭遇した頃の想い出
【4】冬の楽しみ・グリューワインをご存知ですか?
【5】仁木ヒルズワイナリーを訪ねる
【6】酒の愉しみを詠んだ歌人の歩みを真似てみる。
【7】シャンパーニュ地方への旅
【8】エルミタージュの魔術師との出逢い
【9】ワインと光
【10】ワインから生まれた名言たち
【11】ワイン閣下との上手な付き合い方
【12】学問的・科学的とは言えない、でも楽しいワインの知識
【13】ホイリゲでプロースト!旅の途中・グリンツィング村の想い出
【14】幕臣・山岡鉄舟は、果たして酒には強かったのか
【15】ワイン、日本酒、そしてお茶。それぞれの魅力、それぞれの旅路。
【16】北の大地「北加伊道」に想いを馳せて
【17】高貴なるワインだけを愉しみたいなら、洞窟のご用意を
【18】楽しむことが大事なれど、楽しみ方は人それぞれに
【19】よいワインが育つゆりかご、「蔵」について
【20】あれから60年、まだまだ続く「ワインの旅」
【21】片道450㎞、愛車を飛ばして出逢った「奇跡」
【22】もし『雪国』ではなく、函南だったなら…静岡県への小旅行
【23】「沙漠に緑を!」 遠山正瑛先生を偲び、山梨・富士吉田市へ
【24】一杯のワインが人生を変えた…愛知県幡豆郡一色村、とある男の物語
【25】力士たちの仕草に「心」が揺れて
【26】大嘗祭を控える秋。美しいお月様に見守られ、京都を訪ねる
【27】大嘗祭を終えた今こそ、悠久の歴史の渦へ
【28】冬の阿寒、美しく凍える森の中を歩いた6時間
【29】マキシムを栄光へと導いた「私たちのアルベール
【30】車内アナウンスに身体が反応!?長野県茅野市への旅
【31】千年の京都にはどんな”風の色”が吹くのでしょうか
【32】外出自粛の春に想う、奥の細道、水の旅
【33】緊急事態宣言解除で思い出す旅の楽しさ、素晴らしさ
【34】フランソワ一世の生誕地「コニャック」を訪ねて
【35】軍神とその妻、人生の最後に寄り添ったワイン
【36】ドイツ・ミュンヘンの名物イベントに想いをはせて
【37】伊豆、とある館にひそむ物語
【38】旅は人生そのもの、柔道とワインの達人との一期一会
【39】初めての出会いから60年余。いまこそ、贈りたい言葉
【40】「運命」を感じに、部屋の中から壮大な旅を
【41】雪の向こうに見えるもの。川上善兵衛に、改めて敬意を。
【42】散切り頭を叩いてみれば…明治は遠くなりにけり
【43】風の道、森の恵み…ワイン造りに大切なもの。
【44】風は淡い緑色…茶の安らぎを求めて静岡県島田市へ
【45】なくても生きてはいけるが、なくては人生じゃない。
【46】北海道・仁木町の雪は、葡萄とヴィニュロンの心強い味方。
【47】偉人たちが贈った賛辞とともに、ワインを愛でるひととき。
【48】木は日本の心、櫛は心を梳かす…秋が深まる中山道の旅。
【49】千年後に想いを馳せて、イクアンロー!北海道・阿寒のワイン会。
【50】葡萄が「えび」と呼ばれた時代を偲んで…「本草学」のススメ。
【51】カスタムナイフの巨匠は、なぜ「栓抜き」を手がけたのか。
【52】夢の中に御出現! 摩訶不思議な鳥居をめぐる京の旅
【53】明言、金言、至言…先人の御言葉とともに味わう春のワイン
【54】日本の酒文化のルーツは?古の縄文時代を目指す想像の旅
【55】一杯のワインとテディベアが、世界平和に役立ちますように
【56】チリで、フランスで、北海道で。出逢いに導かれた84年。
【57】神話の里、日本一の庭園を擁する美術館への旅。
【58】ワインを愛でる前にそっと心の中で「五観の偈」を思い出してみる
【59】毎年恒例の「北の大地」への旅、今年も学ぶこと多し
【60】一人の女性画家の世界観を訪ねて、春近き箱根路の旅。
【61】大都会の静寂の中で思うこと。
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【63】北海道・常呂で出会った縄文土器、注がれていたのは?
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