2020年5月22日
「月日の旅人」と呼ばれた松尾芭蕉は、三重県伊賀上野の生まれ。29歳までこの地で暮らし、江戸へと旅立ちました。元禄元年(1688年)8月、『笈の小文』『更科紀行』の旅を終えて、江戸深川に帰ってきた芭蕉が、冬になって詠んだ句です。
「冬籠り またよりそはん 此のはしら」
しばらく旅から旅へ渡り歩いたが、住み慣れた深川芭蕉庵の柱によりかかって、この冬は引きこもることにしよう。句の通りに冬を越して、元禄2年(1689年)の春、門人の河合曾良を伴って江戸を出ると『奥の細道』の旅が始まります。
さて、私が伊賀上野に訪ねるようになったきっかけは、長いこと修行させていただいている奈良県平群の里にある信貴山、朝護孫子寺の千手院の管長様のご紹介で知った伊賀上野の老舗「田楽座 わかや」さんとの出会いが始まりでした。そこからどんどん芭蕉の道を分け入るうちに、こんな疑問が頭をよぎったのです。伊賀上野の生まれの芭蕉が、なぜ陸奧を『奥の細道』の舞台に選んだのか。
その深淵に触れたくて、私は岩手・山形・秋田の地を旅してまわりました。旅の目的は違っても、きっと「好奇心」は同じであるはず。道無き道の石仏に語りかけてみたり、見知らぬ地で出会った方々との絆に人生の歴史を実感したり…。あの有名な序文、「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」の気分に浸るひとときは、何度味わっても格別ですね。
ところで、元禄2年と言えば、西行の500回忌にあたる年。吉野の自然、吉野の桜花を愛した西行もまた、奥州を何度か旅しています。芭蕉もそれを知っていて、西行への憧れから、この年に旅立ったのではないか。私も陸奥岩手の旅を愉しむ時は、そんな想像を巡らせたものです。
旅先としての岩手には、もうひとつふたつ、個人的に大きな想い出があります。今から31年前のこと。パリの三ツ星ホテルレストラン『トゥール・ダルジャン』東京店でエグゼクティブ・ソムリエとして働いていた私は、2年後に自分のレストランを開店することを夢見て、この年で職を辞しました。それから一年ほど日本各地へ素材探しに出たのですが、この時、岩手で大きな出会いがあったのです。
北は北海道から南は九州・沖縄まで巡る旅で一番大変だったのは、実は「水探し」でした。もちろん、美味しい水は日本各地に沢山あるのですが、「すごく美味しいのに、最後に舌の上に雑味が残る」など、完璧と言えるものを見つけられずにいました。ほとんど諦めかけていた頃、最後にたどり着いた街が、釜石でした。
釜石港は、この当時の私が見ても懐かしい想い出が広がる港街でした。そこからさらに30年ほど前、船舶乗務員をしていた私は、とある夏の終わり頃、南米はチリのプンタ・アレーナス港で積んだ鉄鉱石をここに届ける任務についていたのです。釜石の沖合から、達成感に包まれながら眺めた大自然の美しい光景は、今も忘れられません。
さて、話を1989年の夏の日に戻しましょう。水探しの旅に疲れ果てていた私が再び釜石の街を訪ねたのは、トゥール・ダルジャン在籍時にお客様として御利用いただいていた釜石中村屋の社長・島村隆さんに、経営ノウハウの指導を仰ぐためでした。あれこれと深夜までお付き合いいただく中で、ふと「水の話」を持ち出したところ、「熱田さん、グッドタイミング!」と仰いました。
日本の近代製鉄業発祥の地である釜石は、あの八幡製鉄所よりも長い歴史を誇りますが、同年3月にその幕を閉じます。これを受けて、それまで「鉄のまち釜石」の根幹を支えてきた釜石鉱山では、鉱泉水(仙人秘水)の製造を開始していたのです。島村社長が仰る通り、まさにグッドタイミングだったわけですね。社長は、そのまま「明日、釜石鉱山へご案内しますよ」と約束してくださいました。
翌朝、市内から車で30分ちょっとの場所にあるナチュラル・ミネラルウォーターの里を訪ねました。夏の暑い日でしたが、工場長さんからヘルメット、外套、長靴、マフラーの着用を促されたことをよく覚えています。準備が整うと、坑口からトロッコ電車「はまゆり号」で湧き口へ。北へ1kmほどの「グラニット・ホール」(地下音響実験室)を過ぎ、さらに約2km進むと鉄鉱石の採掘跡へと出ます。釜石鉱山では、鉱石に磁石がくっつく程の高い磁性を持つことから「磁鉄鉱」とも呼ばれる鉄鉱石に恵まれ、良質な鉄が作られていました。
トロッコ電車に乗って約20分。坑口から入って3kmほど進んだ地点に、仙人秘水の水源がありました。大峰山(1,147m)の直下約600mに位置し、磁鉄鉱の鉱床がちょうどフィルターの役目を果たすような形です。まるでワイン用の葡萄が土壌を選ぶように、雪解け水や雨水も山の土壌を選ぶわけですね。
水は何よりも水源こそが命と言われますが、今や河川の地表水は言うに及ばず、伏流水の多くも「真に安心できる水源」は激減しています。国産市販水のほとんどは加熱殺菌など人工処理がされているくらいですからね。その点、そこで湧き出る水は、ことさら煮沸する必要がないことを厚生労働省の生活衛生局などから認められるほどに恵まれたもの。その美味しさと生命エネルギーを100%活かすために、直接ボトリングされていたのです。鉱内は、年間を通じて約10℃の温度に保たれています。トロッコ乗車前に外套を着用したのも納得でした。
ビクトル・ユゴーの言葉に「神は水を作り、人はワインを造る」という名言があります。アレクサンドル・デュマは「ワイン、それは食史における知性である。肉は物質的な部分に過ぎない」と断じました。生命活動に欠かせないだけでなく、ワインや食事など人生の愉しみにも深く関わる水。現代は海外からもかなりの量が輸入されていますが、個人的には、水こそは地産地消の代名詞だと信じています。
私たちの身体は、実に60%強が水分と聞きます。その上で、毎日、知らないうちに3ℓ以上もの水分が蒸発しているそうです。真夏でなくとも「水分補給は大丈夫?」と自分の身体に訊きたくなりますよね。外出自粛一色の春、事態終息後にはまた「水の旅」に出ようかな…と思い浮かべる私です。しばし引きこもった後、新たな世界へと踏み出した芭蕉に倣って。
著者:熱田貴(あつたたかし)
経歴:昭和13年7月7日、千葉県佐原市に生まれる。外国にあこがれ(株)日之出汽船に勤務し、昭和38年まで客室乗務員として南米、北米を回りワインに出会う。39年にホテルニューオータニ料飲部に。44年~47年までフランス・ボルドー、ドイツ・ベルンカステル、オーストリア・ウィーン、イギリス・エジンバラにてワイナリー、スコッチウィスキー研修。48年ホテルニューオータニ料飲部に復職。平成3年に東京麹町にワインレストラン「東京グリンツィング」を開業。平成9年に日本ソムリエ協会会長に就任。「シュバリエ・ド・タストヴァン」「コマンドリー・デュ・ボンタン・ドゥ・メドック・エ・デ・グラーヴ」「ドイツワイン・ソムリエ名誉賞」など海外の名誉ある賞を数々受賞。その後も数々の賞を受賞し、平成18年に厚生労働省より「現代の名工」を受賞、平成22年度秋の褒賞で「黄綬褒章」を受賞。現在は一般社団法人日本ソムリエ協会名誉顧問、NIKI Hillsヴィレッジ監査役などを務めている。
★ワイン航海日誌バックナンバー
【1】もう1人いた「ワインの父」
【2】マイグラスを持って原産地に出かけよう
【3】初めてワインに遭遇した頃の想い出
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【6】酒の愉しみを詠んだ歌人の歩みを真似てみる。
【7】シャンパーニュ地方への旅
【8】エルミタージュの魔術師との出逢い
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【10】ワインから生まれた名言たち
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【12】学問的・科学的とは言えない、でも楽しいワインの知識
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【15】ワイン、日本酒、そしてお茶。それぞれの魅力、それぞれの旅路。
【16】北の大地「北加伊道」に想いを馳せて
【17】高貴なるワインだけを愉しみたいなら、洞窟のご用意を
【18】楽しむことが大事なれど、楽しみ方は人それぞれに。
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2024年09月27日 発行
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