2022年6月7日
今年の桜が花吹雪となって舞い散る頃、私は京都にいました。天龍寺(1339〜)の曹源池庭園にて、しばし散策のひととき。室町時代の禅僧で天龍寺の初代住職、日本初の作庭家と言われる夢窓疎石(むそう・そせき)の手による素晴らしい庭で一人、何とも心豊かな一日を満喫しています。
心地良い春の風よ! 主よ、私を詩歌の世界に導きたまい。
日本庭園の最高傑作のひとつとも呼ばれる風景を眺めていると万葉の時代に誘い込まれ、続いてかつて大変お世話になったさるお方の御言葉思い出します。ここ天龍寺241世、臨済宗天龍寺派、関牧翁管長様(1903〜1991)。今現在も、私は彼の生き方に惚れ抜いています。
天龍寺の規則、宗制の改正を断行し、自由奔放な禅者として知られた関牧翁さんは、1903年(明治36年)に群馬県下仁田町の岩井家に生を受けました。1923年(大正12年)に慶應義塾大学医学部を中退した彼は、長野県などでの宗教関係の仕事に就いたのち京都に登り、天龍寺の関精拙に弟子入り。その後は関精拙の養子となり、名も関牧翁と改めます。
真冬の伊吹山は厳しい聖地。18才の時、この地で修業を終えて里に降りた時、村人たちから「あなたは、もしかしたら坊さんに向いている」という声を掛けられたそうです。この言葉に一念奮起し、いっそう修業に励んだと語っておられました。
今、私の手元には、その牧翁さんからいただいた書があります。そこには、『御食求道』なる御言葉が。お亡くなりになられる少し前の一筆で、意味は読んで字の如くでしょうか、あるいは、もっともっと深みがあるのでしょうか。
「御」は神を表現しているのかも。「食」という文字を分解すると「人を良くする」と書きます。「求道」とは、取り方によっては意味が深すぎますね。御食求道、眺めていると味わいが豊かに広がっていきます。
さて、こうして書に想いを巡らせている私が今どこにいるかと言えば、北の大地、北海道は余市郡仁木町にある仁木ヒルズワイナリーのホテルの一室。雪解け間近な風景を眺めながら、関牧翁管長を偲び、この文章を綴っています。
聖職という厳しい道を選ばれた牧翁さんとはまったく異なるソムリエの道を選んだ私ですが、かのイエス・キリストは自身の血がワイン、肉体はパンとの御言葉を発したそうですから、ソムリエという職業も聖職のひとつだったりして…とも思ったり。また、我が国でも日本酒を神酒(御酒)と呼ぶことを考えても、酒と神は古き時代から深い関係にあったのかも知れませんね。
御言葉と言えば、ここ仁木神社の管長さんからは、『神人和楽』を教えていただきました。意味するのは、神も人も一緒になって、わいわい和やかに楽しむという神楽の真髄との由。神と人が共に栄え、共に幸せになる…悪くない光景ではないですか!
太陽の光が雪を溶かし始めると、この地も間もなく冬に終わりを告げます。そして春の季節を迎えると、葡萄たちに花が咲き始め、畑にも活力が漲る季節に。ビニョロン(葡萄栽培人)たちにも活気と緊張感が漲る瞬間です。
このコラムでも何度かご紹介していますが、昔の人々はワインを讃える沢山の言葉を残してくれました。たとえば、かのヴィクトル・ユーゴー博士の『c’est dieu qui Crea l’eau, mais I’home fit le Vin.(神は水を創り、人はワインを造る)』との明言はあまりにも有名ですね。あなたなら、どんなお言葉でワインの素晴らしさを讃えますか?
話は変わりますが、1900年代はじめのフランスでは画家の藤田嗣治が活躍していましたが、同時代にもうひとり注目すべき日本人がいました。そのお方は、薩摩治郎八先生。日本ではあまり知られていませんが、そのワイン愛のスケールの大きさは半端ではなかったようです。
治郎八の祖父は、近江商人で有名な滋賀県の出身で、絹で財を残しました。治郎八自身は1901年の東京で生まれ、1918年に渡英したのち、さらにパリへと渡ります。1920年代のパリといえばLes Anne’s Folles、すなわち狂騒の時代。治郎八もワインに湯水の如くお金を費やし、現地の社交界では「最後のワイン閣下(monsennuier du Vins)」と呼ばれていたそうです。
薩摩治郎八先生のワインに対する考え方はあまりに凄すぎて、言葉では表現できません。ワインとともに芸術を愛し、特にオペラや藤田嗣治を通して数多くのアーティストたちと交流を持ち、彼らのパトロンも務めました。実は、私がワインの研究を目指してフランスへ旅立ったのも、薩摩治郎八先生の本に魂を揺り動かされたことが理由のひとつ。あれから半世紀以上が過ぎ去りましたが、しかし、我れ未だ葡萄酒の道は悟りなし。改めてワインとは何か? いまも考え続けています。
もとは論語に由来するそうですが、『知好楽』という言葉があります。調べてみると、「これを知るものは、これを好む者に如かず、これを好む者は、これを楽しむ者に如かず」という意味を内包しているようです。ワインに当てはめてみると、確かに知識も大事ですし、五大シャトーや幻のワインを蒐集するのもよいでしょう。されど、ワインの醍醐味は、楽しむことそのものに大きな意義がある…といったところでしょうか。
こんな感じでワイン談義に耽っていると、よく適量についてのご質問をいただきます。WHO(世界保健機構)によれば、食事時には20グラムらしい。「え、それだけ?」と驚きを感じることと思いますが、実際の量はさておき、この「適量を守る」を貫けば、いずれは『御食求道』を悟ることができるのかもしれません。
もうひとつ、ある日本酒の杜氏さんが教えてくださった御言葉をご紹介しておきましょう。『日本酒に適量なし、酔心に適量あり』と。酔心に適量あり…これも素敵なフレーズですよね。こうして先人から学んだ多くの御言葉を思い返していると、彼らの教えがあって今の私が存在することを実感します。
最後に、ココ・シャネルの名言を。
『私は二つの時にしかシャンパンを飲まない。恋をしている時と、していない時』
著者:熱田貴(あつたたかし)
経歴:昭和13年7月7日、千葉県佐原市に生まれる。外国にあこがれ(株)日之出汽船に勤務し、昭和38年まで客室乗務員として南米、北米を回りワインに出会う。39年にホテルニューオータニ料飲部に。44年~47年までフランス・ボルドー、ドイツ・ベルンカステル、オーストリア・ウィーン、イギリス・エジンバラにてワイナリー、スコッチウィスキー研修。48年ホテルニューオータニ料飲部に復職。平成3年に東京麹町にワインレストラン「東京グリンツィング」を開業。平成9年に日本ソムリエ協会会長に就任。「シュバリエ・ド・タストヴァン」「コマンドリー・デュ・ボンタン・ドゥ・メドック・エ・デ・グラーヴ」「ドイツワイン・ソムリエ名誉賞」など海外の名誉ある賞を数々受賞。その後も数々の賞を受賞し、平成18年に厚生労働省より「現代の名工」を受賞、平成22年度秋の褒賞で「黄綬褒章」を受賞。現在は一般社団法人日本ソムリエ協会名誉顧問、NIKI Hillsヴィレッジ監査役などを務めている。
★ワイン航海日誌バックナンバー
【1】もう1人いた「ワインの父」
【2】マイグラスを持って原産地に出かけよう
【3】初めてワインに遭遇した頃の想い出
【4】冬の楽しみ・グリューワインをご存知ですか?
【5】仁木ヒルズワイナリーを訪ねる
【6】酒の愉しみを詠んだ歌人の歩みを真似てみる。
【7】シャンパーニュ地方への旅
【8】エルミタージュの魔術師との出逢い
【9】ワインと光
【10】ワインから生まれた名言たち
【11】ワイン閣下との上手な付き合い方
【12】学問的・科学的とは言えない、でも楽しいワインの知識
【13】ホイリゲでプロースト!旅の途中・グリンツィング村の想い出
【14】幕臣・山岡鉄舟は、果たして酒には強かったのか
【15】ワイン、日本酒、そしてお茶。それぞれの魅力、それぞれの旅路。
【16】北の大地「北加伊道」に想いを馳せて
【17】高貴なるワインだけを愉しみたいなら、洞窟のご用意を
【18】楽しむことが大事なれど、楽しみ方は人それぞれに。
【19】よいワインが育つゆりかご、「蔵」について
【20】あれから60年、まだまだ続く「ワインの旅」
【21】片道450㎞、愛車を飛ばして出逢った「奇跡」
【22】もし『雪国』ではなく、函南だったなら…静岡県への小旅行
【23】「沙漠に緑を!」 遠山正瑛先生を偲び、山梨・富士吉田市へ
【24】一杯のワインが人生を変えた…愛知県幡豆郡一色村、とある男の物語
【25】力士たちの仕草に「心」が揺れて
【26】大嘗祭を控える秋。美しいお月様に見守られ、京都を訪ねる
【27】大嘗祭を終えた今こそ、悠久の歴史の渦へ
【28】冬の阿寒、美しく凍える森の中を歩いた6時間
【29】マキシムを栄光へと導いた「私たちのアルベール
【30】車内アナウンスに身体が反応!?長野県茅野市への旅
【31】千年の京都にはどんな”風の色”が吹くのでしょうか
【32】外出自粛の春に想う、奥の細道、水の旅
【33】緊急事態宣言解除で思い出す旅の楽しさ、素晴らしさ
【34】フランソワ一世の生誕地「コニャック」を訪ねて
【35】軍神とその妻、人生の最後に寄り添ったワイン
【36】ドイツ・ミュンヘンの名物イベントに想いをはせて
【37】伊豆、とある館にひそむ物語
【38】旅は人生そのもの、柔道とワインの達人との一期一会
【39】初めての出会いから60年余。いまこそ、贈りたい言葉
【40】「運命」を感じに、部屋の中から壮大な旅を
【41】雪の向こうに見えるもの。川上善兵衛に、改めて敬意を。
【42】散切り頭を叩いてみれば…明治は遠くなりにけり
【43】風の道、森の恵み…ワイン造りに大切なもの。
【44】風は淡い緑色…茶の安らぎを求めて静岡県島田市へ
【45】なくても生きてはいけるが、なくては人生じゃない。
【46】北海道・仁木町の雪は、葡萄とヴィニュロンの心強い味方。
【47】偉人たちが贈った賛辞とともに、ワインを愛でるひととき。
【48】木は日本の心、櫛は心を梳かす…秋が深まる中山道の旅。
【49】千年後に想いを馳せて、イクアンロー!北海道・阿寒のワイン会。
【50】葡萄が「えび」と呼ばれた時代を偲んで…「本草学」のススメ。
【51】カスタムナイフの巨匠は、なぜ「栓抜き」を手がけたのか。
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2024年09月27日 発行
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