2018年6月28日
私がワインの楽しさを知ったのが南米チリのバルパライソだとすれば、ワイン人生の「原点」を体験したのは、オーストリアのウィーン19区にあるグリンツィング村でした。1969年6月の初め、フランスへワイン留学をする途中に寄ったウィーンの街の雰囲気に、私は飲み込まれてしまったのです。まだ日本人観光客もそれほど多くなかった時代ですが、もう48年も前になるのですね…。
もうすぐ半世紀を迎えますが、まぶたを閉じれば、まるで昨日のこと…とは言いませんが、つい数年前のことのように。ということで、今日はこのころの想い出を、脳裏にめぐるシーンのままに。
ウィーンに至る道のりの想い出は、まずこのシーンから。横浜からナホトカまで、二泊三日の船旅。航海中は海が荒れ、食事時間になっても誰もベッドから起きてきません。でも、南米航路の船乗りだった私は船酔いに強かったので、モリモリと食べました。ナホトカ号の食事係は、どんどんおかわりをサービスしてくれるんです。あのピロシキ、船上でいったい何個食べたことでしょう…?
でも、料理らしい料理にありつけたのは、ここまででした。ナホトカからハバロスクまでは飛行機で、あとはモスクワまでシベリア鉄道の長い長い旅。何日乗ったのかちょっと記憶がないのですが、おそらく10日間くらいでしょうか。とにかく揺れるわ、夜はひたすら長くて暗いわで、飽き飽きしてしまいました。
おそらく、1991年以降であれば、もう少し快適なシベリア鉄道の旅になったのでしょう。しかし、この当時は、「シベリアのパリ」とさえ讃えられた美しい街並みを持つイルクーツクにも、ほんの少し停車しただけでした。シベリア鉄道と言えば、夜の大陸の闇に向かってひたすら走り続ける旅。そんな時代だったのです。
さて、ようやくモスクワの街にたどり着き、三泊ほど。レニングラード(現在のサンクトペテルブルグ)には、確か二泊しましたかね…強制的に。この時の輝かしい想い出は、エルミタージュ美術館だけ。何とも味気ないソ連の旅でしたが、ひとつだけ、印象に残っていることがあります。当時、「ベリョースカ」と呼ばれた外貨専門の土産物店では、アメリカドルが自由に使用することができたのです。外貨獲得のための店ですから、デパートで購入するよりも格安で。「赤の広場」あたりで写真を撮るとフィルムを没収された時代なので、ちょっと特別な場所でしたね。
宿泊先の「ホテル・ウクライナ」は、当時のモスクワを代表する超一流ホテルでした。にも関わらず、お風呂のお湯を出すと赤い銅色。添乗員に助けを求めても埒が開かず、「これはなんと貴重な体験なのだろう」と思わず神に感謝するほどでした。
いろいろと散々だったモスクワに別れを告げると、最終目的地であるフランスはボルドーへの一人旅が始まります。オーストリアのウィーンで見た風景は、その途中での出来事となります。鉄道の旅ではワルシャワ、ミンスクを通過するのですが、段々と建物の色彩や山々の色合いが「欧州的」になっていくように感じる不思議な感覚も経験できました。ウィーン南駅に到着するころには、「平和と自由」に高揚感さえ覚えたものです。
ホテルまでは、荷物もあるのでタクシーで。かつてハプスブルグ家の夏の離宮と呼ばれたシェーンブルン宮殿のすぐ近くの宿でした。宿の隣がパン屋さんで朝が早く、明け方の4時ごろに漂ってくるパンの焼ける香りがモーニングコール代わりです。
ウィーンに着いた夜、知人に誘われてレストランで食事を楽しんでいると、オーストリアの青年に声を掛けられました。柔道の経験はあるかと訊ねられたのです。聞けば、彼の学んでいる道場には日本でも有名な先生がいたのですが、帰国してしまって困っているとのこと。というわけで、次の日、ヘルツゥグさんの道場で働くことになりました。
ひょんなことから生まれた出会い。こうなると、まずは前祝ですよね。オーストリアと言えばホイリゲ(ワイン酒場)。ならば、ホイリゲ村として最も有名なグリンツィングへ行こうということで、彼の知人がいるというホイリゲハウスへと出かけました。6月のウィーンは、最高の季節。イスもテーブルもすべてグリーン一色で、ホイリゲ(新酒)を飲むグラスはまるでビールジョッキそのものです。
なみなみと注がれて、”Prost、Prost”と言葉を交わしながらの乾杯を繰り返す私たち。本業であるワインの乾杯では感謝を込めて「ツンボール(zum wohi)」と発声しますが、ホイリゲにはもっと気軽に「プロースト」で。
ホイリゲの歴史は古く、1789年にまで遡ります。起源は諸説ありますが、フランツ・ヨーゼフ2世がワイン農家に対して「自分たちが造ったワインを売ってよい」「食事も提供してよい」という許可令を発布したのが始まりという説が有力のようです。この許可令は「ブッシエンシャンク・ゲゼツ(Bugchen chank Gesetz=松の枝の法律)」と呼ばれていて、適用範囲として「ウィーンを中心とした10km以内」と定められていたため、それ以外の葡萄農家はこの条例を尊重する形で「ブッシェンシャンク」という別名をつけて販売したそうです。
ホイリゲハウスは、あくまで気軽にホイリゲを楽しめる場所であり、レストランのカテゴリには入りません。そのためか、ホイリゲを提供する際はグラスを使わず、1/4ℓ入りのジョッキを用います。なお、前述の条例では、「緑の塀に囲まれた中でホイリゲを提供すること」と指定されていたとのことです。
さて、グリンツィング村は、西駅から出ている路面電車38番(シュトラッセンバンNo.38)の終点駅になります。グリンツィングと言えば、晩年を過ごした皇聖ベートーヴェンの家ですね。「エロイカ・ハウス」と呼ばれ、観光客が後を絶ちません。ちなみに、この家から少し北に登ったあたりに、かの有名なベートーヴェンの小径「ベートーヴェン・ガング」があります。偉大なる作曲家の散歩道を、小川のせせらぎを聴きながら散策すると、私でさえ素敵な文章が書ける気がするんですよ。特に音楽好きの方にはおすすめのスポットです。
なお、もう一人の偉大なる作曲家も、「愛する妻の故郷で眠りたい」ということで、グリンツイング墓地に眠っていますね。グスタフ・マーラーは、1860年7月7日、オーストリア帝国ボヘミアのイーグラウ(現在のチェコ)で生まれました。私は、若いころからマーラーが好きなのですが、偶然にも同じ日に生まれております。ウィーンが大好きになったのも、昨年まで半蔵門でフレンチレストラン&ワインバーの「東京グリンツィング」を経営していたのも、もしかしたらマーラーのお導きだったのかもしれません。
と、つらつらと想い出を綴っていると、やはりグラスを掲げたくなります。というわけで…ウィーンに乾杯! グリンツィングに乾杯!
著者:熱田貴(あつたたかし)
経歴:昭和13年7月7日、千葉県佐原市に生まれる。外国にあこがれ(株)日之出汽船に勤務し、昭和38年まで客室乗務員として南米、北米を回りワインに出会う。39年にホテルニューオータニ料飲部に。44年~47年までフランス・ボルドー、ドイツ・ベルンカステル、オーストリア・ウィーン、イギリス・エジンバラにてワイナリー、スコッチウィスキー研修。48年ホテルニューオータニ料飲部に復職。平成3年に東京麹町にワインレストラン「東京グリンツィング」を開業。平成9年に日本ソムリエ協会会長に就任。「シュバリエ・ド・タストヴァン」「コマンドリー・デュ・ボンタン・ドゥ・メドック・エ・デ・グラーヴ」「ドイツワイン・ソムリエ名誉賞」など海外の名誉ある賞を数々受賞。その後も数々の賞を受賞し、平成18年に厚生労働省より「現代の名工」を受賞、平成22年度秋の褒賞で「黄綬褒章」を受賞。現在は一般社団法人日本ソムリエ協会名誉顧問、NIKI Hillsヴィレッジ監査役などを務めている。
★ワイン航海日誌バックナンバー
【1】もう1人いた「ワインの父」
【2】マイグラスを持って原産地に出かけよう
【3】初めてワインに遭遇した頃の想い出
【4】冬の楽しみ・グリューワインをご存知ですか?
【5】仁木ヒルズワイナリーを訪ねる
【6】酒の愉しみを詠んだ歌人の歩みを真似てみる。
【7】シャンパーニュ地方への旅
【8】エルミタージュの魔術師との出逢い
【9】ワインと光
【10】ワインから生まれた名言たち
【11】ワイン閣下との上手な付き合い方
【12】学問的・科学的とは言えない、でも楽しいワインの知識
1日に360万人超、世界で最も乗降客数の多い駅として2007年にギネスブックに登録された新宿駅。乗り入れ路線も多く、コロナ禍以降は「世界一…
記事をもっと見るフランス発、ノンアルコール・スパークリングの最高峰として ことの発端は1688年、シャンパーニュ出身のとある司教がしたためた書簡だったとい…
記事をもっと見る気候と木材を知り尽くす熟練のハウスメーカー 日本の総人口は2011年以降13年連続で減少し、2050年代には1億人を下回るとの予測も。働き…
記事をもっと見るメゾンブランドが奪い合う日本の宝、「遠州織物」の凄みを味わう 世界的な日本ブームの中、さまざまな製品やサービスが外国人から注目を浴びる昨今…
記事をもっと見る氷にも耐えうるアウター、こだわりの”カナダグース”46360pv
トヨタが提案する車のサブスクリプションサービス43653pv
上に乗るだけで体幹づくり、ドクターエアの威力とは42657pv
2024年09月27日 発行
最近見た記事