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一人の女性画家の世界観を訪ねて、春近き箱根路の旅。【ワイン航海日誌】

一人の女性画家の世界観を訪ねて、春近き箱根路の旅。【ワイン航海日誌】

2023年4月6日

春近きその日は、朝から粉雪が舞っていました。

小田原駅から乗り込んだ桃源台行きのバスは、つづら折りの多い山あいの道を進みます。約40分くらいの道のりで目に飛び込んで来るのは、ただただ山景色。木曽路はすべて山のなか…かつて藤村の足跡を訪ねた旅を思い出します。

心地良いバスの揺れに、私はいつの間にか眠っていたようです。「お客さん到着しましたよ、ホテル前ですよ」というローカル線のバスの運転手さんの優しげな声で目を覚まし、バスを降りると仰天しました。目の前に、箱根の大パノラマが! 雪景色と緑と太陽の光が! それは、まるで描かれた1枚の絵画。いや、それ以上かも知れません。

大自然に五体を、脳を、魂までも癒やされながら、本日の宿へ。笑顔で迎えてくれたフロントマネージャーに挨拶し、客室に荷物を置くと、さっそく浴衣に着替えて温泉へ。露天風呂は少し寒いのですが、眩しすぎるほどの冬の太陽が温かな光を降り注いでくれます。足を伸ばし、大きく手を広げて、深呼吸をひとつ。都会の雑音や雑念、嫌なことのすべてが、大自然に吸い込まれていきます。東京からわずか1時間ちょっとの距離で満喫できる箱根路の温泉、悪くないですね。

ここ箱根ハイランドホテルで、大自然に囲まれた森の中、自分をいっさい飾らずに、ごく自然に芸術の世界に溺れる…。時の流れの、なんと優雅なこと。人生は、旅に始まり旅で終わるのかも知れない。改めて気付く瞬間です。

さて、今回の旅の目的は、大きく分けて3つありました。ひとつ目は、とある著名な女性画家の作品に出逢うため。ふたつ目は、もちろん温泉に浸ること。そして最後のひとつは、秘密です。

最初の目的は、ある画家の作品を楽しむこと。私はかつて10年ほどを費やして見知らぬ国を旅したことがあります。現地では、その都度、時間の許す限り美術館や絵画館巡りを続けました。

そんな中で好きになった想い出の作品が、いくつか。とりわけ心に焼き付いている画家は、ワシリー・カンディンスキー(1866〜1944)です。

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彼はロシア出身の画家で、抽象絵画の創始者にして美術評論家でもありました。主にドイツとフランスで活躍し、最終的には両国の国籍も取得しています。

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「シャトー・ムートン・ロートシルト」の1971年のボトルを飾るこのエチケットは、1939年に描かれた作品です。あなたは、このエチケットから何を感じますか? 色彩の美しさに魅了されている時の人間は、偉大なるワインやシャンパーニュを愛でる時の、あの弾けるような喜びと瓜ふたつ。「グラスに注がれたシャンパーニュに耳を傾けるとショパンの曲が、ある時はバッハの調べが聴こえてくる」との表現も素晴らしいのですが、私はカンディンスキーの絵に喩えるのが好きです。

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シャンパーニュグラスの中で美しく泡立つ様子はまさにグラスの中の芸術。カンディンスキーは、「具体的に何を描いたか分からなくても、純粋な色や形態だけでも絵になり得る」と語っています。絵もワインも、私たちの人生に欠かせない「不必要な必要品」であると、私は信じています。

彼を真似て、小さな旅へ出たこともあります。見知らぬ土地で人々と出逢い、小鳥たちの歌声や森を駆け抜ける風の音に驚き、美術館や絵画館で感動に打ち震えて。そして、村はずれの小さな食堂での村人たちと飲んだ、あのカラフ入りの地の赤ワイン。「人生は芸術だ」と仰った方がおられますが、こうして思い起こしても、確かにすべての瞬間が芸術のように感じます。長いこと人生経験を積んでいると、アートの何たるかも少し分かるような気がしてくるものですね。

横道にそれてしまいました。今回の箱根路の2泊3日の旅は、私が「日本のカンディンスキー」と勝手に呼んでいる、ある女性画家の個展に触れるのが大きな目的。個人的な主観ではありますが、彼女の作品や人生観は、波乱万丈の時代に生きたカンディンスキーの作風とどこか繋がっているように感じるのです。

一人の日本人として、自然との調和や心の平和、そしてキャンバスに込める一瞬一瞬の思いを大切に作品を創っておられるその女性画家は、安藤 純さん。2008年、イスラエルの子どもたちに絵画を教える経験を通して対立する宗教観の中で「心の平和」を守ることの尊さを実感された彼女は、日本人として備わっている平和への独自の感覚や、自然を崇拝する精神性、エネルギーや感性をキャンバスに乗せていきたい…との旨を語っておられます。

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一度見た景色を心に焼き付け、瞑想的に引き出してキャンバスに描いていく創作スタイルは、2015年、米国の歴代大統領の肖像画をホワイトハウスに納めた画家エバ・マック氏に日本人として初めて師事し、絵画技法の指導を受けられた成果なのでしょうか。彼女の素晴らしい絵画との出会いは、私が半世紀近く修行させていただいている奈良にある大本山山手千手院さんに飾られていた作品が最初でした。安藤画伯の絵は、平和で安穏な空間へと私を導いてくれます。そんな彼女の世界観に満たされる空間で、愛でるワインの味に言葉は不要。ただ静かにグラスを掲げるのみ。

最後に、もう一人、心に残った画家を紹介させてください。ベルナール・カトラン(1919〜2004)は、花や風景、人物などを独自のスタイルで抽象化した作品で知られるフランス人画家で、私を虜にした画家の一人です。日本ではあまり知られていませんが世界中に多くのファンを持ち、我が国にも何度かお越しになっています。

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半世紀ほど前になります。私の師とも言うべきボルドー在住のピエール・シャリオール氏に、ある日突然「逢わせたい男がいる」と告げられて、3泊4日の旅に出ました。目的地はリヨン市を南下したタン・エルミタージュ村にあるワイン生産者さん。ここはシラー品種を主とするワインの銘醸地で、フランスのソムリエたちは「神様がプレゼントしてくれた葡萄畑」と呼びます。

お目にかかったのは、プリュ・ク・パルフエ(完璧よりさらに上)を信条とするジャン・ルイ シャーヴ氏。かのカトランをして「ジャンよ、貴方は私よりも遥かに芸術家だ!」と言わしめたワイン生産者でした。

ジャンルは違っても、人が人生をかけて到達する美の世界に、私たちは圧倒されます。そして、それに触れるたびに、決まって一杯のワインの中にある哲学にも気付くことになるのです。

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著者:熱田貴(あつたたかし)
経歴:昭和13年7月7日、千葉県佐原市に生まれる。外国にあこがれ(株)日之出汽船に勤務し、昭和38年まで客室乗務員として南米、北米を回りワインに出会う。39年にホテルニューオータニ料飲部に。44年~47年までフランス・ボルドー、ドイツ・ベルンカステル、オーストリア・ウィーン、イギリス・エジンバラにてワイナリー、スコッチウィスキー研修。48年ホテルニューオータニ料飲部に復職。平成3年に東京麹町にワインレストラン「東京グリンツィング」を開業。平成9年に日本ソムリエ協会会長に就任。「シュバリエ・ド・タストヴァン」「コマンドリー・デュ・ボンタン・ドゥ・メドック・エ・デ・グラーヴ」「ドイツワイン・ソムリエ名誉賞」など海外の名誉ある賞を数々受賞。その後も数々の賞を受賞し、平成18年に厚生労働省より「現代の名工」を受賞、平成22年度秋の褒賞で「黄綬褒章」を受賞。現在は一般社団法人日本ソムリエ協会名誉顧問、NIKI Hillsヴィレッジ監査役などを務めている。

★ワイン航海日誌バックナンバー
【1】もう1人いた「ワインの父」
【2】マイグラスを持って原産地に出かけよう
【3】初めてワインに遭遇した頃の想い出
【4】冬の楽しみ・グリューワインをご存知ですか?
【5】仁木ヒルズワイナリーを訪ねる
【6】酒の愉しみを詠んだ歌人の歩みを真似てみる。
【7】シャンパーニュ地方への旅
【8】エルミタージュの魔術師との出逢い
【9】ワインと光
【10】ワインから生まれた名言たち
【11】ワイン閣下との上手な付き合い方
【12】学問的・科学的とは言えない、でも楽しいワインの知識
【13】ホイリゲでプロースト!旅の途中・グリンツィング村の想い出
【14】幕臣・山岡鉄舟は、果たして酒には強かったのか
【15】ワイン、日本酒、そしてお茶。それぞれの魅力、それぞれの旅路。
【16】北の大地「北加伊道」に想いを馳せて
【17】高貴なるワインだけを愉しみたいなら、洞窟のご用意を
【18】楽しむことが大事なれど、楽しみ方は人それぞれに
【19】よいワインが育つゆりかご、「蔵」について
【20】あれから60年、まだまだ続く「ワインの旅」
【21】片道450㎞、愛車を飛ばして出逢った「奇跡」
【22】もし『雪国』ではなく、函南だったなら…静岡県への小旅行
【23】「沙漠に緑を!」 遠山正瑛先生を偲び、山梨・富士吉田市へ
【24】一杯のワインが人生を変えた…愛知県幡豆郡一色村、とある男の物語
【25】力士たちの仕草に「心」が揺れて
【26】大嘗祭を控える秋。美しいお月様に見守られ、京都を訪ねる
【27】大嘗祭を終えた今こそ、悠久の歴史の渦へ
【28】冬の阿寒、美しく凍える森の中を歩いた6時間
【29】マキシムを栄光へと導いた「私たちのアルベール
【30】車内アナウンスに身体が反応!?長野県茅野市への旅
【31】千年の京都にはどんな”風の色”が吹くのでしょうか
【32】外出自粛の春に想う、奥の細道、水の旅
【33】緊急事態宣言解除で思い出す旅の楽しさ、素晴らしさ
【34】フランソワ一世の生誕地「コニャック」を訪ねて
【35】軍神とその妻、人生の最後に寄り添ったワイン
【36】ドイツ・ミュンヘンの名物イベントに想いをはせて
【37】伊豆、とある館にひそむ物語
【38】旅は人生そのもの、柔道とワインの達人との一期一会
【39】初めての出会いから60年余。いまこそ、贈りたい言葉
【40】「運命」を感じに、部屋の中から壮大な旅を
【41】雪の向こうに見えるもの。川上善兵衛に、改めて敬意を。
【42】散切り頭を叩いてみれば…明治は遠くなりにけり
【43】風の道、森の恵み…ワイン造りに大切なもの。
【44】風は淡い緑色…茶の安らぎを求めて静岡県島田市へ
【45】なくても生きてはいけるが、なくては人生じゃない。
【46】北海道・仁木町の雪は、葡萄とヴィニュロンの心強い味方。
【47】偉人たちが贈った賛辞とともに、ワインを愛でるひととき。
【48】木は日本の心、櫛は心を梳かす…秋が深まる中山道の旅。
【49】千年後に想いを馳せて、イクアンロー!北海道・阿寒のワイン会。
【50】葡萄が「えび」と呼ばれた時代を偲んで…「本草学」のススメ。
【51】カスタムナイフの巨匠は、なぜ「栓抜き」を手がけたのか。
【52】夢の中に御出現! 摩訶不思議な鳥居をめぐる京の旅
【53】明言、金言、至言…先人の御言葉とともに味わう春のワイン
【54】日本の酒文化のルーツは?古の縄文時代を目指す想像の旅
【55】一杯のワインとテディベアが、世界平和に役立ちますように
【56】チリで、フランスで、北海道で。出逢いに導かれた84年。
【57】神話の里、日本一の庭園を擁する美術館への旅。
【58】ワインを愛でる前にそっと心の中で「五観の偈」を思い出してみる
【59】毎年恒例の「北の大地」への旅、今年も学ぶこと多し

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