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「沙漠に緑を!」 遠山正瑛先生を偲び、山梨・富士吉田市へ【ワイン航海日誌】

「沙漠に緑を!」 遠山正瑛先生を偲び、山梨・富士吉田市へ【ワイン航海日誌】

2019年6月27日

旅人は、旅をすることによって、新しい何かを発見します。旅から学ぶことは多く、旅先で出逢った人が人生の師となることも。好奇心が深まるにつれ、旅は二重にも三重にも楽しさが増し、人生をより豊かにしてくれます。

ワインを愛で、ソムリエ業を天職と思う人は、多くの旅を通じて学んだ経験が見聞を広げ、自身の仕事を天職と思う瞬間に巡り合うものです。時には、聖職とさえ思えることもあるでしょう。私も、そんな経験を持つ人間のひとりです。

某日、日本の葡萄酒の聖地と呼ばれる山梨県は勝沼の地を訪れた折りに、ある男性の物語を教えていただきました。彼の名は、遠山正瑛。我が国の沙漠研究者の第一人者として世界的に高名な先生は、山梨県富士吉田市のご出身なのです。
顔

葡萄生産の歴史が深い山梨県。東京からわずか100kmちょっとの地に、一大ワイン生産地が存在します。遠山先生は、「沙漠に森を世界に平和を やればできる やらねばできぬ」というお言葉を遺しておられます。その日、私は勝沼から東京へ帰る予定だったのですが、急遽予定を変更。先生の生まれ故郷へと車を飛ばしました。

日本武尊が東国遠征の際に越えたことに由来するとされる自然豊かな御坂峠を抜け、ひとまず河口湖へ。太宰治は、『冨嶽百景』で「富士には月見草がよく似合う」と綴りましたが、この花は背丈30cm〜60cmほどに背丈を伸ばし、夕方、月の光が辺り一面を照らし始めます。

音を立てながら真っ白な花を開く月見草は一夜しか咲かず、朝を迎え咲き終わる頃にはややピンク色に。実は、私は富士吉田に近い秋山村に10年ほど住んだ経験があり、月夜の晩に咲く瞬間を何度も目の当たりにしました。可憐さ、儚さを感じる花ですが、同時に、咲き始める瞬間には言葉では表現できないほどの生命力を感じるんですよね。

多分、遠山先生も、少年時代を富士山と大自然に囲まれた中で過ごされたのではないかと思います。

1906年12月14日、富士の霊峰が手に掴めるほどの瑞穂という村の大正寺で7人兄弟の三男として生を受けた遠山先生は、日川中学(現・日川高校)に入学。後に中国で栽培することになる葡萄の生産が盛んな勝沼の親類宅に下宿し、収穫期には同級生の葡萄畑を手伝ったそうです。遠い昔、欧州からシルクロードを経由して中国、そして日本へと伝来したという葡萄。先生がその味に触れたのもこの時期、1920年頃のことです。

我が国に沙漠はありませんが、鳥取砂丘は有名ですね。遠山先生は、京都大学農学部を卒業後、昭和10年に中国へ留学します。帰国後は鳥取大学に赴任し、昭和21年から鳥取砂丘で農業利用の研究を本格的に始めました。これが、先生の沙漠との感動的なストーリーの始まりです。1978年、日本と中国は平和友好条約を締結しますが、その翌年、先制は鳥取砂丘での研究成果と技術を携え、再び中国へと渡ります。

生誕百年を記念して刊行された『風去来』には、こんな一文があります。

「鳥取の砂丘研には、私の残した「風去来」と記した碑が建っている。考えて見れば、この地点が私にとってのサハラ、ゴビへの入り口であった。「風去来」はまさに私の一生である。富士山下ろしの風と共にこの世に生まれ、沙漠の砂と共に生き、沙漠の風と共に砂の中に消える運命である」(「よみがえれ地球の緑」交成出版社 より)

冊子

時代が大きな夢を見せたのか、あるいは生まれ育った環境が大きな目標を生んだのでしょうか。先生は、不生の地と呼ばれる沙漠に繁殖力旺盛な日本のクズを移植しました。しかし、物語には紆余曲折があるものです。夜な夜な喰い荒らすヒツジたちに手を焼いた先生は、次にポプラを植樹。ここでも苦労を重ねつつも、どうにか成功へと漕ぎ着けます。

年間で実に約100万本が植樹されたという熱意を、時の流れがさらに大きく育てます。現在ではポプラが森をなし、緑の草原を広げ、スイカやトマトなどの野菜畑の防風林となって農業を発展させる礎に。また、緑化によって虫や鳥、動物たちも戻りました。

先生は、生まれ故郷の山梨から葡萄を移植。テンゲル沙漠の入口近くにある沙坡頭実験站(さばとうじっけんざん)に「近代化萄園」を作り、5kmにわたり植樹しました。テンゲル沙漠は冬の寒さは極めて厳しく、夜間はマイナス25℃にまで下がるそうです。葡萄のツルが凍結しないように、地中に埋めて寒さから守ったとのことですので、頭が下がります。ちなみに、日本から持ち込んだ苗木は「巨峰」でした。中国の農業関係者の度肝を抜いたのは、3年目の春だったそうです。

全世界の沙漠に緑を。希望に燃えていた遠山先生は、こう仰っています。

「地球上、陸地の四分の一に当たる沙漠地の緑化は世界平和への道と信じています。沙漠の国は戦乱が絶えません。貧しさに宗教と民族がからんでのことです。沙漠を緑化し沙漠の民の貧しさを少しでもなくする。それは平和の道への基本であります。祈りだけでなく実践活動することなくして解決はしません。祈りから実践です」

銅像

この素晴らしい言葉に、とうの昔に魂を奪われている私は、この旅で大正寺を訪ねました。前住職の遠山正尊師と約3時間に渡り、正瑛先生のお話を伺いました。最後に、正尊師に「正瑛先生はワインは飲まれましたか」と尋ねたところ、アルコール類は一滴も召し上がらなかったとのお返事。逆に、煙草はお好きで、「超」がつくほどのヘビースモーカーだったそうです。にも関わらず、97歳までお元気に過ごされました。

通用門

「沙漠に森を、世界に平和を、やればできる、やらねばできぬ」

今、改めて、言葉に魂を揺さぶられます。1991年、「日本沙漠緑化実験協会」が設立された際に合言葉となった「沙漠を緑に」は、遠山イズムの原点。この協会は、その崇高な理念のもと、さらなる地球環境保全へと邁進しています。

今回、ふと旅に出たのは、この素晴らしい協会の存在を未来ある青年たちにも知らせたかったからです。若者も、そうでない方も。さあ、皆さん、旅に出かけませんか?


著者:熱田貴(あつたたかし)
経歴:昭和13年7月7日、千葉県佐原市に生まれる。外国にあこがれ(株)日之出汽船に勤務し、昭和38年まで客室乗務員として南米、北米を回りワインに出会う。39年にホテルニューオータニ料飲部に。44年~47年までフランス・ボルドー、ドイツ・ベルンカステル、オーストリア・ウィーン、イギリス・エジンバラにてワイナリー、スコッチウィスキー研修。48年ホテルニューオータニ料飲部に復職。平成3年に東京麹町にワインレストラン「東京グリンツィング」を開業。平成9年に日本ソムリエ協会会長に就任。「シュバリエ・ド・タストヴァン」「コマンドリー・デュ・ボンタン・ドゥ・メドック・エ・デ・グラーヴ」「ドイツワイン・ソムリエ名誉賞」など海外の名誉ある賞を数々受賞。その後も数々の賞を受賞し、平成18年に厚生労働省より「現代の名工」を受賞、平成22年度秋の褒賞で「黄綬褒章」を受賞。現在は一般社団法人日本ソムリエ協会名誉顧問、NIKI Hillsヴィレッジ監査役などを務めている。

★ワイン航海日誌バックナンバー
【1】もう1人いた「ワインの父」
【2】マイグラスを持って原産地に出かけよう
【3】初めてワインに遭遇した頃の想い出
【4】冬の楽しみ・グリューワインをご存知ですか?
【5】仁木ヒルズワイナリーを訪ねる
【6】酒の愉しみを詠んだ歌人の歩みを真似てみる。
【7】シャンパーニュ地方への旅
【8】エルミタージュの魔術師との出逢い
【9】ワインと光
【10】ワインから生まれた名言たち
【11】ワイン閣下との上手な付き合い方
【12】学問的・科学的とは言えない、でも楽しいワインの知識
【13】ホイリゲでプロースト!旅の途中・グリンツィング村の想い出
【14】幕臣・山岡鉄舟は、果たして酒には強かったのか
【15】ワイン、日本酒、そしてお茶。それぞれの魅力、それぞれの旅路。
【16】北の大地「北加伊道」に想いを馳せて
【17】高貴なるワインだけを愉しみたいなら、洞窟のご用意を
【18】楽しむことが大事なれど、楽しみ方は人それぞれに
【19】よいワインが育つゆりかご、「蔵」について
【20】あれから60年、まだまだ続く「ワインの旅」
【21】片道450㎞、愛車を飛ばして出逢った「奇跡」
【22】もし『雪国』ではなく、函南だったなら…静岡県への小旅行

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