2022年1月28日
フランスのとある高名な芸術家が、ワインへの賛歌としてこんな言葉を残しています。「ワインは不必要な必要品。なくてもよいが、なければ人生じゃない」
豊かなるアールヌーボーの時代ならいざ知らず、コロナ禍に翻弄されながらも大規模な自然災害に備えなければならない現代です。食糧品がもしも手に入らなくなったら、そんな時代が本当にやって来たら、ワインを楽しむどころではないかもしれません。私たちは、その時、どうするのでしょうか。皆様なら、どうなさいますか?
本草学(ほんぞうがく)という学問をご存知でしょうか。元々は中国の薬物学で、さまざまな動植物や鉱物についての医薬的な効能などを究める学問です。我が国では江戸時代に全盛を極めましたが、もしかしたら、今こそ改めて学ぶべき時なのかもしれません。
かつては、本草学を学ばない人間は旅する資格がないと見做されるほどの必須知識。本草学を修めた学者、またそれに長じた人々を「本草家」「本草者」と呼びます。個人的に、私が特に興味をそそられたのは、稲生若水と並び称された江戸時代の本草家・後藤梨春でしょうか。1696年江戸に生まれた彼は、1771年に亡くなるまで、当時としては長生きされ歳たようです。享年76歳。
若くして本草学者の田村藍水から修学し、のちに本名の多田から後藤へと改名した梨春は、『本草網目補物品目録』『春秋七草』『紅毛談』といった著書を残しています。特に、オランダの文化や生活などについて筆述した1765年発刊の『紅毛談』の下巻は、電気にまつわる文献として我が国でも初のものとして知られていますね。アルファベットを載せたため幕府から絶版を命じられてしまったそうですが。
ほかに本草学を語るに欠かせない人物と言えば、まず小野蘭山先生でしょう。1729年、京都に生誕。本名は職博、号は蘭山、京都の松岡玄達に本草学を学び、『本草網目啓蒙』をはじめ著書多数。1841年に80歳で亡くなりましたが、後藤梨春と同じく長生きされました。
蘭山先生は時々、弟子らとともに採薬の旅に出ています。「春秋には山野に出掛け草木を採り、虫石を尋ね、従者に示し、品物を見習はしむ」と記した彼を指して、かのシーボルトは「日本のリンネ」と評したとか。カール・フォン・リンネはスウェーデンの博物学者・植物学者で、分類学の父とも呼ばれていますね。
また、私は、あの平賀源内も本草学の大家であったと信じています。源内(通称では元内とも書きました)は1728年、信濃国・佐久の豪族を先祖に持つ白石家の三男として、讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)に生まれました。彼も13歳にして本草学を学び、1752年頃には長崎へと遊学。本草学やオランダ語、医学、油絵などを学んだのち、1756年に江戸に出て、やはり田村藍水に弟子入り。2度目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学び、我が国の鉱山開発に関わりました。有名な「エレキテル(静電気発生機)」を修理・復元したのは、1776年のこと。しかし、源内の晩年は暗く、その3年後に投獄。前述のふたりのように長生きすることなく、その年のうちに亡くなります。享年52歳。
もうひとり、本草学を学んだ人物をご紹介しておきましょう。松浦武四郎は、1818年に伊勢国は松阪市小野江町に生を受けました。松浦家では四番目の男の子で、寅年にちなんでゆかりの深い竹を当てて名付けたようですが、のちに武四郎と改めます。
1869年、北海道(北海伊道)と名付け親となった彼もまた、少年期から本草学を学んでいました。コンビニどころか食堂や宿も少ない時代に若くして流離の旅人となった武四郎にとって、本草学はまさに必要欠くべからずの学問。一時は仏門に入り、還俗して6度に及び蝦夷地の探検・調査に出た彼にとって、僧侶としての経験とともに薬の知識は存分に活かされたはず。本草学が存在したからこそ、北海道として今に至る歴史の幕が開いたのかも知れませんね。
一人は日本海側を、一人は太平洋側を。武四郎の調査の半世紀以上前、蝦夷の地を測量して歩いたのが、伊能忠敬先生とその門人・間宮林蔵でした。その貴重な情報をもとに蝦夷地を愛し、アイヌの人々を愛した武四郎の人間性や生き方に、若くしてふれた本草学は大いに関係していることでしょう。翻って令和の現代、自然の脅威とその偉大さを改めて噛みしめる時代だからこそ、未来ある子どもたちにもぜひ学んでほしい学問のひとつだと思います。
よくよく考えてみると、ワインは葡萄から造られています。古事記や日本書紀の時代には「えび」あるいは「えびづる」と呼ばれていた通り、その葡萄だってもともと山中に繁茂していたもの。ワインやジャムなどで大人気となる以前は、葡萄(えび)は薬として使われていたものと想像できませんか。
生きるために、楽しむために。改めて、もう少し本腰を入れて本草学を学んでみたくなりました。
著者:熱田貴(あつたたかし)
経歴:昭和13年7月7日、千葉県佐原市に生まれる。外国にあこがれ(株)日之出汽船に勤務し、昭和38年まで客室乗務員として南米、北米を回りワインに出会う。39年にホテルニューオータニ料飲部に。44年~47年までフランス・ボルドー、ドイツ・ベルンカステル、オーストリア・ウィーン、イギリス・エジンバラにてワイナリー、スコッチウィスキー研修。48年ホテルニューオータニ料飲部に復職。平成3年に東京麹町にワインレストラン「東京グリンツィング」を開業。平成9年に日本ソムリエ協会会長に就任。「シュバリエ・ド・タストヴァン」「コマンドリー・デュ・ボンタン・ドゥ・メドック・エ・デ・グラーヴ」「ドイツワイン・ソムリエ名誉賞」など海外の名誉ある賞を数々受賞。その後も数々の賞を受賞し、平成18年に厚生労働省より「現代の名工」を受賞、平成22年度秋の褒賞で「黄綬褒章」を受賞。現在は一般社団法人日本ソムリエ協会名誉顧問、NIKI Hillsヴィレッジ監査役などを務めている。
★ワイン航海日誌バックナンバー
【1】もう1人いた「ワインの父」
【2】マイグラスを持って原産地に出かけよう
【3】初めてワインに遭遇した頃の想い出
【4】冬の楽しみ・グリューワインをご存知ですか?
【5】仁木ヒルズワイナリーを訪ねる
【6】酒の愉しみを詠んだ歌人の歩みを真似てみる。
【7】シャンパーニュ地方への旅
【8】エルミタージュの魔術師との出逢い
【9】ワインと光
【10】ワインから生まれた名言たち
【11】ワイン閣下との上手な付き合い方
【12】学問的・科学的とは言えない、でも楽しいワインの知識
【13】ホイリゲでプロースト!旅の途中・グリンツィング村の想い出
【14】幕臣・山岡鉄舟は、果たして酒には強かったのか
【15】ワイン、日本酒、そしてお茶。それぞれの魅力、それぞれの旅路。
【16】北の大地「北加伊道」に想いを馳せて
【17】高貴なるワインだけを愉しみたいなら、洞窟のご用意を
【18】楽しむことが大事なれど、楽しみ方は人それぞれに。
【19】よいワインが育つゆりかご、「蔵」について
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【34】フランソワ一世の生誕地「コニャック」を訪ねて
【35】軍神とその妻、人生の最後に寄り添ったワイン
【36】ドイツ・ミュンヘンの名物イベントに想いをはせて
【37】伊豆、とある館にひそむ物語
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【40】「運命」を感じに、部屋の中から壮大な旅を
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【43】風の道、森の恵み…ワイン造りに大切なもの。
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【47】偉人たちが贈った賛辞とともに、ワインを愛でるひととき。
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2024年09月27日 発行
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