2017年5月25日
我が国でワインの父、葡萄の父と言えば、まず川上善兵衛翁の名が思い浮かびますね。創業120年を超える老舗ワイナリー「岩の原葡萄園」の創業者であり、ワインづくりに生涯を捧げた偉人です。気候風土に適したワイン用葡萄品種の交雑を行い、代表作として有名な「マスカットベリーA」や「ブラッククイーン」など、多数の品種を世に送り出したことは、よく知られています。
川上は、地元・新潟県の発展に尽くしました。勝海舟との出会いに刺激を受け、「殖産興業、国利民福」の理念を郷土に活かすことを考えるようになったのだそうです。その結果、中央からも「越後に川上あり」と讃えられるほどの成果を挙げました。彼が興した岩の原葡萄園は、現在もそのワインづくりの精神を継承しておられます。
私が初めてワインに出会ったのは、今から56年前のことです。川上翁にまつわる逸話をはじめ、それなりに知識も貯えてきたつもりでしたが、恥ずかしながら、もうひとり「ワインの父」と呼ばれる人物がいることをつい最近まで知りませんでした。
ある方から入会を誘われて、初めて中村天風師を知ったのは、数年前のことです。以来、天風先生の書籍を読み耽りましたが、その中の一冊「図説 中村天風」(海鳥社)の中で、とある人物の名に目が留まりました。
前田正名(1850~1921)は、鹿児島県児島市小川町生まれ。薩摩藩の貧しい漢方医の6男として生を受け、のちに山梨県知事や貴族院の勅選議員を歴任しました。1869年(明治2年)の6月、明治新政府のフランス公使書記生として渡仏した正名は、8年間にわたり現地で学びます。帰国時には、自分で買った葡萄の種苗を数多く持ち帰り、内藤新宿試験場付属試験地へ仮植したのち、三田種苗場へと移されたそうです。
調べるほどに、私は正名に惹かれました。日本を発つ前年に髙橋新吉、前田献吉の両氏と共同で発行したという「和訳英辞書」(通称「薩摩辞書」)が静岡県中央図書館に所蔵されていることを知り、写真を撮りに訪れたほどです。自分でも驚くほどに傾倒していったのですが、ある日、決定的な出来事に恵まれます。
北海道の阿寒湖畔で開催されている「あかん湖鶴雅ウィングス」でのワイン会に参加した時のことですが、私の臨席に、いかにも品のある老紳士が座っておられました。名刺をいただくと、「一般財団法人 前田一歩園財団 前田三郎」とありました。何と、この方こそが前田家の4代目で、初代・正名が興した前田一歩園を管理する財団の理事長さん(現在は顧問)だったのです。
前田一歩園財団は、阿寒湖周辺の森林保護活動や環境保全のための調査研究、人材育成や事業用地の貸付け、温泉の供給に関する事業など、広範囲にわたり地元に貢献を果たしておられます。それもそのはず、前田家には、「財産すべて公共事業の財産とす」という家訓があるのだとか。
遠く雄阿寒群れ立つ雲は釧路平野の雨になる
その美しさを歌に詠んだ野口雨情をはじめ、阿寒国立公園は昔も今も多くの人々の心を捉えて離しませんが、その阿寒の美を今も護ってくださっているのが前田家なのですね。
さて、フランスに滞在していた正名は一度日本に帰国した際、本場フランスのワインを学ぼうとしていた2人の日本人青年たちをフランスに引率し、その2人の日本人青年を大変可愛がったそうです。その青年たちの名は、髙野正誠氏、そして土屋龍憲氏。本場の知識を日本に持ち帰った立役者として、ワイン好きにはよく知られていますね。正名は、1年間にわたり彼らと行動をともにし、通訳をはじめあらゆる面で支援したとか。髙野・土屋両氏はフランス語が話せなかったそうですので、現地ではまさに「ワイン学習の父」のような存在だったのでしょう。
今、国産ワインの品質のすばらしさが見直されていますが、ワインを愛でるひとときに歴史の世界の探訪はよく合います。日本のワインの源流には川上善兵衛がいて、前田正名がいる。偉大なる先人たちには、感謝してもし切れませんね。
というわけで、またワイナリーを訪ねる旅に出るとしますか。
酒に適量なし
酔心に適量あり。
著者:熱田貴(あつたたかし)
経歴:昭和13年7月7日、千葉県佐原市に生まれる。外国にあこがれ(株)日之出汽船に勤務し、昭和38年まで客室乗務員として南米、北米を回りワインに出会う。39年にホテルニューオータニ料飲部に。44年~47年までフランス・ボルドー、ドイツ・ベルンカステル、オーストリア・ウィーン、イギリス・エジンバラにてワイナリー、スコッチウィスキー研修。48年ホテルニューオータニ料飲部に復職。平成3年に東京麹町にワインレストラン「東京グリンツィング」を開業。平成9年に日本ソムリエ協会会長に就任。「シュバリエ・ド・タストヴァン」「コマンドリー・デュ・ボンタン・ドゥ・メドック・エ・デ・グラーヴ」「ドイツワイン・ソムリエ名誉賞」など海外の名誉ある賞を数々受賞。その後も数々の賞を受賞し、平成18年に厚生労働省より「現代の名工」を受賞、平成22年度秋の褒賞で「黄綬褒章」を受賞。現在は一般社団法人日本ソムリエ協会名誉顧問、NIKI Hillsヴィレッジ監査役などを務めている。
※メイン写真提供:石原健男
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2024年09月27日 発行
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