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伊豆、とある館にひそむ物語【ワイン航海日誌】

伊豆、とある館にひそむ物語【ワイン航海日誌】

2020年10月16日

ある日、友人から葡萄が贈られてきました。巨峰、俗に言う「葡萄の王様」です。鮮やかな黒紫色の大きな粒は、一房で800gくらいはありそうで、口に含むとジューシーな果汁と上品な甘さは広がっていきます。

さて、ここで終わらないのが私の癖。王様に好奇心をくすぐられるがまま東京駅へタクシーを飛ばし、「これから間に合う新幹線で三島まで」と、葡萄を巡る旅へと発展します。

巨峰で、伊豆は少し不思議ではありますが、かつて私は中伊豆への旅路の途中に「巨峰発祥の地」という看板を目にした記憶がありました。調べてみると大井上康翁と大井上理農学研究所というなんとも気になる名前を発見したのです。

そうして無鉄砲な旅は伊豆から始まりました。三島から伊豆箱根鉄道に乗り換え修善寺へ。海は見えませんが、車窓から望むいくつかの河川の綺麗さに驚かされます。さらにタクシーで上白岩の山頂まで登り、進む道がなくなってしまった先にポツリと西洋風の館が建っていました。それが大井上康学術文献資料館(大井上理農学研究所)です。

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大井上康は明治25年、海軍の軍人の子として広島県呉市江田島の海軍兵学校官舎で生誕しました。幼少期に病気で片足を失う不運にみまわれています。農業学者を志して、東京農業大学へ。卒業後、一年ほど茨城県の牛久葡萄園の技師として葡萄交配育種と作物栽培法の研究に没頭しました。

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しかし、彼の「植物に容易に栄養を与えず必要な時期に必要な栄養素を最低限与える」(栄養周期理論)が当時の学会で異端児扱いされたことと、鋭利にのみ走る経営を嫌い、農学会を去ることを決意。大正八年、自らの農業理論実践の為に富士山を望むこの地に大井上理農学研究所を設立したのでした。

そして、20年を超える試行錯誤の末にやっと辿り着いたのが巨峰の開発だったのです。戦争が終わり、仲間50人とともに全国食糧増産同志会を立ち上げ、食糧不足で国民が困っている今こそ「栄養周期理論」が役立つ時だと農家に訴えていこうと試みました。そんな彼の元には全国から30万人近くの会員が集まりました。

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そして、1937年に豪州品種「センテニアル種」と岡山県産の「石原早生」の交配に着手、1939年にようやく初めて一房をつけました。そこには全国の農家の方々の汗と血の出るような努力があったと伝わっています。実は当初この品種は「石原センテニアル」と呼ばれていました。大井上康が、富士山の裾野の広がりの偉大さのように全国に普及することを願い「巨峰」という商品名を付け流通させたそうです。その後、商品名が広がったことで品種名も「巨峰」となりました。

最後に大井上康の有名な言葉を記します。

「何よりも たしかなものは 事実である」


 著者:熱田貴(あつたたかし)
経歴:昭和13年7月7日、千葉県佐原市に生まれる。外国にあこがれ(株)日之出汽船に勤務し、昭和38年まで客室乗務員として南米、北米を回りワインに出会う。39年にホテルニューオータニ料飲部に。44年~47年までフランス・ボルドー、ドイツ・ベルンカステル、オーストリア・ウィーン、イギリス・エジンバラにてワイナリー、スコッチウィスキー研修。48年ホテルニューオータニ料飲部に復職。平成3年に東京麹町にワインレストラン「東京グリンツィング」を開業。平成9年に日本ソムリエ協会会長に就任。「シュバリエ・ド・タストヴァン」「コマンドリー・デュ・ボンタン・ドゥ・メドック・エ・デ・グラーヴ」「ドイツワイン・ソムリエ名誉賞」など海外の名誉ある賞を数々受賞。その後も数々の賞を受賞し、平成18年に厚生労働省より「現代の名工」を受賞、平成22年度秋の褒賞で「黄綬褒章」を受賞。現在は一般社団法人日本ソムリエ協会名誉顧問、NIKI Hillsヴィレッジ監査役などを務めている。

★ワイン航海日誌バックナンバー
【1】もう1人いた「ワインの父」
【2】マイグラスを持って原産地に出かけよう
【3】初めてワインに遭遇した頃の想い出
【4】冬の楽しみ・グリューワインをご存知ですか?
【5】仁木ヒルズワイナリーを訪ねる
【6】酒の愉しみを詠んだ歌人の歩みを真似てみる。
【7】シャンパーニュ地方への旅
【8】エルミタージュの魔術師との出逢い
【9】ワインと光
【10】ワインから生まれた名言たち
【11】ワイン閣下との上手な付き合い方
【12】学問的・科学的とは言えない、でも楽しいワインの知識
【13】ホイリゲでプロースト!旅の途中・グリンツィング村の想い出
【14】幕臣・山岡鉄舟は、果たして酒には強かったのか
【15】ワイン、日本酒、そしてお茶。それぞれの魅力、それぞれの旅路。
【16】北の大地「北加伊道」に想いを馳せて
【17】高貴なるワインだけを愉しみたいなら、洞窟のご用意を
【18】楽しむことが大事なれど、楽しみ方は人それぞれに
【19】よいワインが育つゆりかご、「蔵」について
【20】あれから60年、まだまだ続く「ワインの旅」
【21】片道450㎞、愛車を飛ばして出逢った「奇跡」
【22】もし『雪国』ではなく、函南だったなら…静岡県への小旅行
【23】「沙漠に緑を!」 遠山正瑛先生を偲び、山梨・富士吉田市へ
【24】一杯のワインが人生を変えた…愛知県幡豆郡一色村、とある男の物語
【25】力士たちの仕草に「心」が揺れて
【26】大嘗祭を控える秋。美しいお月様に見守られ、京都を訪ねる
【27】大嘗祭を終えた今こそ、悠久の歴史の渦へ
【28】冬の阿寒、美しく凍える森の中を歩いた6時間
【29】マキシムを栄光へと導いた「私たちのアルベール
【30】車内アナウンスに身体が反応!?長野県茅野市への旅
【31】千年の京都にはどんな”風の色”が吹くのでしょうか
【32】外出自粛の春に想う、奥の細道、水の旅
【33】緊急事態宣言解除で思い出す旅の楽しさ、素晴らしさ
【34】フランソワ一世の生誕地「コニャック」を訪ねて
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