2021年5月27日
ワインにはいくつかの顔がありますが、その原点は気候風土にあると考えます。ひとつでも欠ければ出来上がるワインに影響を与えるのですから、役割は重大です。
多くの場合、ワイナリーの近くには森が存在します。ワイン用のブドウを育てる上での守護役という意味で、大きな力を発揮するわけです。たとえば、ワインの一大産地である南仏の地中海沿岸、特にプロヴァンス地方に吹く風「ミストラル」は有名ですが、それは風と言うよりも暴風と呼んだ方が正しいかもしれません。mistralとは、プロヴァンス語で「見事な」という意味を持ちますが、風のミストラルはふたつの顔を持っています。
まず、この風は、カラリと晴れた新鮮な空気をもたらし、ぶどうを育てるに適した気候をプレゼントしてくれます。まさにワインのために非常に大きな役割を果たしているのですが、その反面、時速100 kmヘクトパスカルの風力で吹き荒れることがしばしば。ミストラルはすべての季節に発生しますが、通常、冬から春にかけて吹くことが多いようです。時には一週間以上も吹き荒れるという、ぶどうにとっては「最悪の風」となります。
ぶどうにとって最良であり、最悪でもあるミストラル。プロヴァンスの人々は考え、背が高くて風にも耐えられるシプレという木を上手に植えて、防風林を作りました。このミストラルを逃す「風の道」のおかげで、プロヴァンス地方のワインは一気に有名になりました。
この風について、もう少し、思いつくままに。フランス滞在中は、ミストラルが吹き荒れた日は、ドライブ中の車が毎年数台も行方不明になる…という話をたびたび耳にしました。また、「見事な」という意味合いからフランス空軍のミサイルや戦闘機などの名前によく使用されますが、かつて「ル・ミストラル」は1950年から1982年までパリ〜ニース間を走った特急豪華列車として世界に名を馳せました。そのほか、日本製のクロスバイク「ジオス・ミストラル」や、1964年に発売されたイタリアの「マセラティ・ミストラル」も有名どころ。車と言えば、1990年代に日産自動車が販売していた「ミストラル」を思い出す方も多いかもしれませんね。
さて、こうして樹と森の関係を考え始めるといろいろなことが思い浮かびますが、今はやはり、個人的に関わりを持つ北海道は仁木町の「仁木ヒルズワイナリー」へと行き着きます。ファーストヴィンテージのリリースは2015年とまだ歴史は浅いのですが、すでに世界が認めるグローバルスタンダードのひとつとなった素晴らしいワインを産出しています。
気候風土に恵まれた同地ですが、そこには自然の豊かさを守るための努力がありました。ある夜、ワイナリーの建設にともに参加してくださった故 C・W・ニコルさんとホテルでワインを楽しんでいると、自然の偉大さ、素晴らしさについて、こう話してくださいました。「森が死んでいると、果物も河川も死んでしまう、魚もダメなってしまう。そして森が死んでしまうと、海も死んでしまう」。
その言葉通り、ワイナリー建設プロジェクトで彼が取り掛かった最初の仕事は、敷地を取り巻く森の手入れでした。それは、森を蘇らせる作業です。ニコルさんは、重機やトラクターは森の中に入れさせず、人間と馬、伐採などに使用するノコギリなど限られた道具だけで作業を進めました。
ドイツが生んだ森林学の大家ペーター・ヴォールレーベン氏は、世界的名著『樹林たちの知られざる生活』の前書きで、こう書いています。
「樹林そして自然への愛が芽生えてから、奇跡や不思議なこととたくさん出会い始ました。毎日のように新たな発見が続き、私の生活は楽しいものに変わっていった。営林方法も樹林の習性を尊重し、やり方を変える事にした。人間と同じよう木も痛みを感じ、記憶もある。木も親と子が一緒に生活している。そういうことが分かった以上、手当たり次第に木を切り倒し、大きな乗り物で樹木の間を走り回る気になるならない。20年ほど前から営林地では大型の機械を使わないようにしている。木を伐採した時は作業員が馬を使って慎重に運び出す」
健康な森づくりについての考察は、ニコルさんが手塩にかけて生かしてくれた仁木ヒルズワイナリーの森への思想と瓜ふたつ。今、仁木ヒルズワイナリーの森では、みずみずしい生命が生まれ、ぶどうに滋養を与えています。やがて、余市川から余市湾へと河川が流れ、秋の季節には余市川へ鮭が戻り、最北限の清流には鮎の群れ、プランクトンたちが牡蠣の生育に大きな役割を果たしてくれます。
仁木・余市の風土は、まさにワインの神様からのプレゼントであると信じています。私たちは、ニコルさんの教えを守り、森と自然を守るために、これからも一生懸命努力しなければなりません。
仁木ヒルズワイナリーの所在地は「旭台」と呼ばれています。古くからこう呼ばれていたそうで、太陽が一番先に登る地という意味から名付けられたようです。フランス流に呼ぶならば、「clos du soleil」といったところですね。なお、仁木の畑の土壌の中には、ワイン用の葡萄造りに微妙な味を醸し出す特殊な鉱石「ゼオライト」が存在することが分かっています。まさに恵まれに恵まれた大地、この地に出会えたことに感謝するばかりです。
ニコルさんと知り合ってから、私は樹齢古き神木を探し歩く旅に出かけるようになりました。樹齢千年、いや二千年をも超えると思しき古木と出会うと、魂を揺さぶられます。樹齢古きから学ぶ事多し。さあ、また旅に出かけましょう。今度は、岐阜県瑞浪市にある大湫神明神社(オオクテシンメイジンジャ)の大杉に逢いたい気分ですが、さて。
著者:熱田貴(あつたたかし)
経歴:昭和13年7月7日、千葉県佐原市に生まれる。外国にあこがれ(株)日之出汽船に勤務し、昭和38年まで客室乗務員として南米、北米を回りワインに出会う。39年にホテルニューオータニ料飲部に。44年~47年までフランス・ボルドー、ドイツ・ベルンカステル、オーストリア・ウィーン、イギリス・エジンバラにてワイナリー、スコッチウィスキー研修。48年ホテルニューオータニ料飲部に復職。平成3年に東京麹町にワインレストラン「東京グリンツィング」を開業。平成9年に日本ソムリエ協会会長に就任。「シュバリエ・ド・タストヴァン」「コマンドリー・デュ・ボンタン・ドゥ・メドック・エ・デ・グラーヴ」「ドイツワイン・ソムリエ名誉賞」など海外の名誉ある賞を数々受賞。その後も数々の賞を受賞し、平成18年に厚生労働省より「現代の名工」を受賞、平成22年度秋の褒賞で「黄綬褒章」を受賞。現在は一般社団法人日本ソムリエ協会名誉顧問、NIKI Hillsヴィレッジ監査役などを務めている。
★ワイン航海日誌バックナンバー
【1】もう1人いた「ワインの父」
【2】マイグラスを持って原産地に出かけよう
【3】初めてワインに遭遇した頃の想い出
【4】冬の楽しみ・グリューワインをご存知ですか?
【5】仁木ヒルズワイナリーを訪ねる
【6】酒の愉しみを詠んだ歌人の歩みを真似てみる。
【7】シャンパーニュ地方への旅
【8】エルミタージュの魔術師との出逢い
【9】ワインと光
【10】ワインから生まれた名言たち
【11】ワイン閣下との上手な付き合い方
【12】学問的・科学的とは言えない、でも楽しいワインの知識
【13】ホイリゲでプロースト!旅の途中・グリンツィング村の想い出
【14】幕臣・山岡鉄舟は、果たして酒には強かったのか
【15】ワイン、日本酒、そしてお茶。それぞれの魅力、それぞれの旅路。
【16】北の大地「北加伊道」に想いを馳せて
【17】高貴なるワインだけを愉しみたいなら、洞窟のご用意を
【18】楽しむことが大事なれど、楽しみ方は人それぞれに。
【19】よいワインが育つゆりかご、「蔵」について
【20】あれから60年、まだまだ続く「ワインの旅」
【21】片道450㎞、愛車を飛ばして出逢った「奇跡」
【22】もし『雪国』ではなく、函南だったなら…静岡県への小旅行
【23】「沙漠に緑を!」 遠山正瑛先生を偲び、山梨・富士吉田市へ
【24】一杯のワインが人生を変えた…愛知県幡豆郡一色村、とある男の物語
【25】力士たちの仕草に「心」が揺れて
【26】大嘗祭を控える秋。美しいお月様に見守られ、京都を訪ねる
【27】大嘗祭を終えた今こそ、悠久の歴史の渦へ
【28】冬の阿寒、美しく凍える森の中を歩いた6時間
【29】マキシムを栄光へと導いた「私たちのアルベール
【30】車内アナウンスに身体が反応!?長野県茅野市への旅
【31】千年の京都にはどんな”風の色”が吹くのでしょうか
【32】外出自粛の春に想う、奥の細道、水の旅
【33】緊急事態宣言解除で思い出す旅の楽しさ、素晴らしさ
【34】フランソワ一世の生誕地「コニャック」を訪ねて
【35】軍神とその妻、人生の最後に寄り添ったワイン
【36】ドイツ・ミュンヘンの名物イベントに想いをはせて
【37】伊豆、とある館にひそむ物語
【38】旅は人生そのもの、柔道とワインの達人との一期一会
【39】初めての出会いから60年余。いまこそ、贈りたい言葉
【40】「運命」を感じに、部屋の中から壮大な旅を
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2024年09月27日 発行
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