Special Issueビズスタ特集

いくつになっても、「はじめて」を。

いくつになっても、「はじめて」を。

2017年4月7日

退屈な日常を作り出しているのは、ほかならぬ私たち自身の「腰の重さ」。
見知らぬ世界の門をくぐれば、「あの頃の自分」にすぐ戻れる。

新年の誓いのようなものを口にしたのは、つい先日。年が明けたと思ったら、あっという間に新年度。うっかりしていると桜の季節さえ見逃しそうな、今日この頃。
毎年のことながら、新入社員の顔ぶれを眺めては、自分が新人だった頃を思い出す。着慣れないスーツに戸惑って、毎朝ネクタイと格闘して。学生時代の自由気ままな日々を懐かしがりつつも、新しい環境の緊張感と高揚感に包まれて、見るもの、会う人、すべてが新鮮に感じたものだ。きっと生き生きとした顔をしていたのだろう…今年の新人たちのように。
それまでの価値観を変える出会いや出来事に彩られた毎日。当時のエピソードは、今も忘れ難いことばかり。だが、年々、そんな刺激が減っているように思う。昨年の桜と、一昨年の桜。例年の花見のシーンを、記憶をしっかり辿らないと描き分けられない自分に、年齢を感じる。
今もそれなりに起伏に富んではいるのだが、やはり「似たような日常」でしかないのだろう。だが、新しいものを知りたいという好奇心は、必ずしも若さの特権というわけでもない。たとえば、写真は夏のイタリア、芸術の街・フィレンツェのマジックアワーだ。映画や写真で見慣れた絵だが、この中に自分が立っていたら、どうだろう。目の前の風景に、どこからか流れてくる食の香りに、そして行き交う人々に、がぜん興味が湧いては来ないだろうか。
ほんの数時間の空路の向こうに、人生を変えるほどの光景がある。その「まだ見ぬ世界」は、いつでも門が開いている。あとは、自分が動くかどうか。
大人に必要なのは、「はじめて」を味わいたいと願う意欲だと思う。退屈な日常など、その気になれば簡単に打破できるのだ。何しろ、感動が薄い毎日は、私たち自身が「動かない」ことで作り出しているものなのだから。

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